チェコ・ポーランドの旅15(野村路子先生のお話2)

 早速、チェコ大使館をノンアポで訪問された野村先生は、日本で絵の展覧会を開きたいので絵を貸してほしい旨伝えられ、大使館を通してユダヤ博物館との交渉が始まり1990年2月に再度ユダヤ博物館へ行かれることになり、そこでのやり取りで原画を持ち出すのは難しいことがわかります。

 「絵」というとつい画用紙を思い浮かべますが、ナチス兵の目を盗んで大人が集めた紙は粗末で、ボロボロに傷んだ原画を動かすことは出来ず写真に撮ってパネル展示を行うことになりました。

 話は前後しますが、この絵のいきさつについて少し敷衍します。家族と引き離され笑顔が消えた収容所の子供たちに対して「命を救うことはできないが、せめて生きている間だけでも、笑顔にしてあげよう」と話し合った大人たちが学校を作り女性画家フリードル・ディッカーが子どもたちに絵を描くことを教え、笑顔が戻ったといいます。ですが、フリードルも子どもたちの大半もアウシュヴィッツに送られ亡くなりました。

 このような状況下で描かれた絵が多くの人の目に触れるようになるには、奇跡に近い出来事が幾重にも重なっています。

 収容所が解放され、すでにドイツ兵が重要書類を焼却して逃げ去ったあとの廃墟に残されていた4000枚の絵を見つけたのは、収容所で子供たちの世話役をしていたビリー・グロワー氏でした。野村先生はこの方に会って当時の詳しい話を聞かれています。彼は、ドイツ軍の倉庫にあった大きなトランクに絵を詰めこんで、60キロの道をプラハまで持ち帰ったのですが、当時のプラハユダヤ人協会は、大変な忙しさで、トランクは地下室へしまわれたままになっており、トランクが開けられ、中に入っていたのが、子どもたちの絵だと分かったのは戦後20年近く過ぎたときでした。このようにして戦火を生き延びた絵の展覧会、「たかが子供の絵、しかもレプリカ、誰が見に来るの?」との声もあったそうですが、野村先生の熱い思いは確実に伝わり、多くの人から感想が寄せられ、テレビでも中学時代にこの絵を見て自分の生き方が変わったという青年が紹介されていました。

         2019年に開催された展覧会のポスターです。

      

 2020年に計画されていたイスラエル旅行ではテレジンの数少ない生き残りディタ・クラウスさんのお話も聞けることになっていたのでとても楽しみにしていたのですが、コロナ禍のため、出発前日に中止の連絡が入りとても残念な思いをしました。